ドラちゃん、ハッピーバースデー!!!
私が物心つく頃からずっと「32歳!」と言ってましたが…
あれれ?そんな私が来月1月で32歳になるんだけどなぁ。
おかしいなぁ
クリスマスになると毎年思い出す、ドラちゃんが私に仕掛けたサプライズ。
私が小学1・2年生の頃。
その日はクリスマスイブで、ドラちゃんと二人で台所に立って夕飯の準備をしていました。
「ドラ子、雨戸を閉めてきて!」とドラちゃんに頼まれた私は
「はーい!」と、リビング・子供部屋の雨戸を閉め、雨戸のカギを閉め、
もちろん窓も窓のカギも閉め、玄関のカギをかかっていることを確認して台所に戻りました。
二人で準備を続けていると…外から鈴の音が…!!
シャンシャンシャン
えええ!?近づいてくる!!
近づいてきた鈴の音はまた遠ざかって行きました。
「何、今の !?」とドラちゃんと顔を見合わせると
「えー!もしかしてサンタさん?!お部屋、見てきてみたら?」とドラちゃん。
恐る恐る子供部屋に行くと、閉めたはずの窓も雨戸も少し開いていて…
そこにはプレゼントが置いてありました
家にはドラちゃんと私の二人しかいなかったし、鍵は全部しめたし、だって一緒に台所にいたんだし!
私の隙を見てサッとプレゼントを置きに行ったとしても…
じゃあ外から聞こえた鈴の音は?!
数年前、この事をドラちゃんに聞いてみた事がありましたが「知らなーい サンタさん、ほんとに来たんじゃない ?」と、とぼけて教えてくれませんでした。
ドラちゃんなき今、この謎は一生解けないままなんだろうなぁ。ほんとに来たのかなぁサンタさん
2014年11月
10月に入院してから、体の痛みを抑えるシールタイプの薬を貼っていたのですが、11月よりテープを1枚から2枚に増やしました。
そのせいか倦怠感が増した様で、ベッドから出て売店やリハビリに行ったりお見舞いに行った私達をエレベーターホールまで見送ってくれていた10月に比べると、ベッドの上にいる時間が増えました。
そんな中、「明日は外出して一旦家に帰るんだ♪」とドラちゃん。
「何しに行くの?」と聞くと「ジャイアン、もうすぐ誕生日でしょ?ハンドクリームを家から取ってこなきゃ 」と。
手先を使う仕事だから、と毎年私の主人の誕生日にはドラちゃんがsaqinaのハンドクリームをプレゼントしてくれていて、今年もいつもの様にお見舞いに行ったジャイアンにドラちゃんが「おめでとう!」とプレゼントしてくれました
それからは少しずつ、ウトウトと眠っている時間が増えていきました。目が覚めると、その時はいつものドラちゃんで、力の無い、か弱い声にはなってきましたが冗談を言ったり、私が自宅で撮ったミニドラの動画を見せてあげたり…で、またウトウトと眠ったり。そんな日が数日続きました。
11月16日。
日曜なのでミニドラを連れてお見舞いに行くと、看護師さんが点滴の調整をしているところでした。看護師さんが「あら、お孫さん?可愛いねー!」と言うとドラちゃんは「でしょー?ミニドラくんです^^」と弱々しいながらも笑顔を見せていました。
11月17日。
いつも通り昼休みに病院に行くと、明らかにダルそうなドラちゃん。腹水を抜く処置をしていました。先週も一度腹水を抜いており、その後は少し体調が回復した感じがあったので「また今回もこれで少しは楽になるね」と言うと、コクリと頷きました。私がいつもの帰る時間になると布団から手を出して弱々しく「バイバイ」と手を振るので「寒いから手、布団にいれときな^^」と布団に手を戻してあげました。
11月18日。
いつもの時間に病院に向かうと、昨日に増してダルそうに眠っているドラちゃんの姿が。苦しそうな表情はしていないので起こすのも悪いな、と昼休み時間いっぱい近くの椅子に座っていました。そろそろ帰る時間になり立ち上がると、ドラちゃんが目を開いたので「明日は仕事が休みだからミニドラを連れてくるからね。ゆっくり休んでてね^^」と言うと…昨日までは手を持ち上げて手を振ってくれていたのにこの日はベッドの柵に手を置いたまま人差し指を軽く持ち上げる程度…。手を軽くさすって「またね」と病室をあとにしました。
11月19日に日付が変わった夜中の1時過ぎ。
のび太くんから電話が。「今、病院から電話があって…ドラちゃん、心臓が止まったって…」と。急いで病院にかけつけました。誰にも心配かけたくない、強がりで格好良い女、ドラちゃんらしく、最期は一人で逝ったようです。看護師さんが見回りに来たタイミングなのか、携帯用の心電図を装着していたので、その異常で駆けつけてくれたのかは不明ですが、心臓が止まったと連絡があったということは大きな急変や苦しむことなく逝ったのだと思います。穏やかな顔でした。食事が摂れないのが続いていたので痩せてしまってはいましたが、病室でもテスラーを持ち込んでお手入れをしていたためか、シミ・シワがほとんどない艶々した肌でした。
入院していることも身内以外ほとんど知らなかったので、ドラちゃんの知人たちは一様に驚いていました。決して隠していたわけではなくて、誰よりも前向きで退院する気・元気になる気が満々だったのです。
入院中も運動リハビリや輸血など、自分から「体力を付ける為にやりたい」と申し出てやっていただいていました。
最後まで全く弱音を吐かず、「つらい」「しんどい」「苦しい」という単語はもちろん「死ぬのかな…」というマイナスの発言を一切しませんでした。
葬儀では数々の人が母の為に涙を流してくれて、悲しくも…なんだか誇らしい気持ちになりました。これからも、ドラちゃんは私の憧れの女性であり続けることでしょう。
これで、ドラちゃんの更新が途絶えてから亡くなるまでの軌跡は終わりです。暗い内容はこれでお終い!!
これからは、私がドラちゃんのように日々の発見や楽しい事、ミニドラの成長を綴っていきます!
2014年10月
10月1日。仕事がお休みで、ミニドラの顔を見せに朝から実家に行っていました。
お昼頃、ドラちゃん・私・ミニドラで遊んでいると、ドラちゃんが突然「イテテテ…」と腰痛を訴えました。
横になっても痛み止めを飲んでも痛みが引かず、母を車に乗せ病院に向かいました。
ひと月ほど前にドラちゃん自身から「今日、定期検査してきたんだけど数値がちょっと上がってて。食事がちゃんと摂れるようになったら少し強い抗がん剤に変えるかも」と報告を受けていた事もあり、「食べられるようになるまで入院で点滴かなー」なんて車の中で話していました。
診察を受け、やはりそのまま入院に。
その夜、病室でドラちゃん・のび太くん・私(&ミニドラ)で談笑していると、看護師さんが「ご主人様、先生から今回の入院の説明がございます」とのび太くんを呼びに来ました。
数分後、戻ってきたのび太くんにドラちゃんが「先生何だって?」と尋ねると「食べられるようになるまで今の薬をお休みして…だってさ」とのこと。
「じゃあ次の治療に進める様に頑張って食べる練習だね!」と本人は笑顔でした。
病院は、私の住まいと実家のちょうど中間地点にあり、どちらからも車で15分程度の場所にあったため、翌日から毎日お見舞いに行きました。
10月1日の入院から数日後、ドラちゃんの姉(私の叔母)から電話がありました。
「ドラ子、ドラちゃんの話どこまで聞いてる?」
「ん?食べられるようになったら次の抗がん剤使うって話は聞いたよ!」
「そっか、のび太くん、ドラ子には何も言ってないんだ…。私も今日『先生から伝えられている事を全て話して』とお願いしてのび太くんに全部教えてもらったばかりなんだけど…」
そう言って、叔母は私に今伝えられるドラちゃんの状況を全て教えてくれました。
2月の手術で判明した、病の進行度(ステージ)。
手術の時点で、のび太くんにだけ主治医から命の期限が伝えられていた事。
その期限は3年、5年と長いものではなかった事。
私が出産したばかりだった事もあり、のび太くんは悩んだ末に誰にも伝えず今日の今日まで一人で抱えていた事。
先日の入院説明では、主治医から「もう、あれから8ヶ月経ちましたからね…」と言われた事。
2月始めの時点で「もしかしたら孫の顔を見せてあげられないかも知れない」と心のどこかで覚悟していたためか、不思議と涙は出ませんでした。
家族・親戚で話し合ったわけではないですが、皆の気持ちは一緒でした。
「本人は治療に前向きなので命の期限は本人には伝えない。本人の前では涙は見せず普段通り接する。」と。
私の仕事がある日はお昼休みにコンビニでお昼を買って、ドラちゃんの病室で食べ、仕事が休みの日はミニドラを連れて会いに行くのが日課になりました。
映画好きのドラちゃんの為に、入院生活は暇だろうと…W●WOWのテレビガイドを持って、見たいものに○を付けてもらってそれをDVDに焼いてせっせと病院に運びました。
本人も、痛み止めの副作用で多少の倦怠感はあるものの、「ベッドの上にいてばかりだと歩けなくなる!」と自ら頼んで機能訓練士さんと運動をしたり、「テスラーだけ取り外して持ってきて!」と私に頼み、それからはシャワー後にお顔のお手入れも毎日したり…。
「いつ退院できるかな?」「来月はミニドラを連れて水族館に行こうよ!」と、入院こそしているものの、いままでと何ら変わらない明るく前向きなドラちゃんでした。
つづく
2014年3月
3月中旬より抗がん剤(飲み薬)が始まりました。
目立った副作用もなく、定期的な通院・血液検査をしつつ食事の回数、内容に気をつけながら普段通りに寝起きし、仕事のユニフォームに着替え、毎日化粧をし、仕事も家事も無理をしない範囲で生活していました。
2014年4月
私の職場で急な欠員が出た事により私が想定より早く、産後2ヶ月で職場復帰することに…!!
まだ保育園の申請をしていなかったので、4月いっぱいは『ドラちゃん保育所』にお願いしていました
お昼前にミニドラを実家に連れて行き、私は職場へ。
夜仕事を終えてお迎えに行くまで、ドラちゃんにお世話してもらっていました。
4月末、私達とドラ店のお休みが重なったのでミニドラの「お宮参り」に!
2014年5月
5月から無事、ミニドラの保育園入所が決まり、5月からは毎週仕事が休みの日にミニドラを連れてドラちゃんに会いに行きました。
5月中旬にはミニドラの100日祝い&ドラちゃん・のび太くんの結婚記念日を合同でお祝いしました。
お食い初めのメニュー(お赤飯・煮物・お吸い物など)はドラちゃん手作り!!
2014年6月
定期通院の血液検査で腫瘍マーカーの上昇があり、化学療法(点滴による点滴)が始まりました。
飲み薬だけだった時よりも副作用が多少出るようで、家事も仕事も体調を見ながら休み休み、それでもテキパキ!こなしていました。
2014年7月
ドラちゃん、のび太くん、ドラ子、ミニドラの4人で近くのイオンモールにお買い物。
ミニドラの夏服、おもちゃをいっぱい買ってもらいました
2014年8月
水戸の校門祭 花火大会。
ドラちゃん行きつけ(定例会)の居酒屋さんから焼き鳥・焼きおにぎりを買ってきてもらい、私の職場の駐車所で宴会するのが毎年恒例!今年ももちろん宴会しました!
私の仕事が終わる前に花火が始まり、あまりの近さにギャン泣きしたミニドラを、ドラちゃんが抱っこしてなだめてくれました。
2014年9月
ドラちゃん、のび太くん、ジャイアン、ドラ子、ミニドラの5人で動物園に。
山を切り開いて作ったような立地でアップダウンの激しい動物園にみんなヘロヘロ…。
動物園デビューのミニドラは、ヤギを見て興奮してました。
つづく
先日は突然の不幸のお知らせで驚かせてしまい、申し訳ありませんでした。
同時に、皆様からの温かいコメント…本当に感謝しております。
今回は、母の更新が1月に停まってから何があったのか…を簡単に残したいと思います。
明るい話、笑顔になる話ではないので読まれる方も抵抗があるかと思います。
ですが2009年の5月からほぼ毎日、嘘偽りなく毎日の出来事を投稿していた母のブログですので、この件に関しても嘘偽りなく、そして母が闘った証を残したいのでここにに書かせていただくことにいたしました。
2014年1月
昨年末より、このブログにも記載している通り胃の不快感を訴えておりましたが、これが全ての始まりでした。
当初は食べ過ぎによる胃もたれではないか、
そして母には甲殻類アレルギーがあり、忘年会で食べたもののなかに「生春巻き」があり、エビ自体は抜いたが触れていた部分も食べてしまったので胃の中がアレルギー症状で荒れているのでは?と話していました。
最後の更新があった翌日、1月28日に大きな病院を紹介されCT、レントゲン等の検査をし、結果が出るまでは(ほとんど食べられない日々が続いていたため)栄養補給のために毎日点滴治療に通う事に。
2014年2月
2月3日、検査結果が出る前でしたが、胸のつかえと数回の嘔吐により診察→そのまま入院。
数日後、検査結果が出ましたが、考え得る一番悪いシナリオ…進行性の胃がんとのことで2月12日に全摘手術が決定。
母本人は、点滴の継続により入院前よりだいぶ元気になり、2月22日が出産予定日だった私に「一足お先に『お産』をさせていただきますね~」と笑っていました。
その翌日…2月8日、予定日より2週間も早く私の方が早く『お産』となり、元気な男の子「ミニドラ」を出産!!
数日後の2月12日、母の手術も無事終了。
私の出産、母の手術とそれぞれ入院しており「お互いの一大事の時にそばにいられなくてもどかしいね!」と病室からメールのやりとりをしていました。
まず私が退院、母も術後の経過が良く食事も摂れるようになり、2月末には退院する事が出来、念願の初孫を抱かせてあげる事ができました!
つづく。
約1年ぶりの更新になりました。
初めまして、ドラ子(娘)です。
ご覧いただいている方はまだいらっしゃるでしようか…?
良い事も悪い事も、このブログに書き込んでいたドラちゃん(母)に変わってご報告いたします。
母、ドラちゃんは先月11月19日に亡くなりました。
1月にブログの更新がストップしてから色々ありましたが、2月には私が出産し、孫を抱かせてあげる事が出来ました。
これからこのブログはドラちゃんの様に毎日
という訳にはいきませんが、
1月以降に起こった出来事と、私が見つけた「今日の感動」、そしてドラちゃん念願の初孫「ミニドラ」の成長を残して行ければな、と思っています。
改めてよろしくお願い致します!